2009年12月1日火曜日

【第48回】科学する心(Scientific Mind)②


― 幼児教育学者からの提言 ―

前回は『科学する心』について脳科学者である小泉英明氏の提言をご紹介しましたが、今回は幼児教育学者・秋田喜代美氏からの提言をご紹介します。

秋田氏は「科学する心」を、「一方的に与えられる環境ではなく相手が受け入れてくれ応えてくれる環境(応答的な環境)の中で、それも、座学ではなく行動しながら遊びやくらしを通して育まれる」と捉え、以下の3つのことが重要であると提言しています。

一つめは、教育社会学者のバジル・バーンスタインが唱えている「見えない教育方法」。高等教育になればなるほど教育が細分化され、学習効果の評価がよく「見えやすい教育方法」になるが、その分、身につきにくい知識の剥離現象も起こりやすい。断片的な知識だけで習得すると剥落しやすい。それに対して、幼児教育においては、身体を通して経験の連続性の中で学ぶこと(知の総合化)、知識を中心にして法則・原理を教えるだけではなく学びを身体化することが大切である。環境と一体となった体験を乳幼児期に「遊びこむ」経験を通しておくことが、小学校以上での学習の根になっていく。そうやって興味・関心を育てておかなければ、学校の理科教育でいくら面白い実験をやっても、その場限りのものになってしまって根付かない。

野依良治教授(2001年ノーベル化学賞受賞)も、人間の知恵には体系的に整理された「形式知」と、そうではない「暗黙知」とがあることを述べています。学校で教わるのは「形式知」だが、それだけでは不十分。センス・オブ・ワンダー(Sense of Wonder)をいかに持ち続けるかが大事。小さいときに、十分に自然に触れて土台をしっかりと育んでおかないと駄目だ。科学とは、詰まるところ、とことん根源まで遡って本当かどうかを議論すること。限られた「形式知」では根源に帰れない。自然とは何かということが小さい頃から体に染み付いているかどうか、「暗黙知」の問題である。最近は自分達で根源まで遡ることが難しくなってきており、科学的精神が昔に比べて衰退していると、嘆いています。

二つめは、「経験の連続性」。貴重な科学する経験を一度しただけで子どもの心は育つものではなく、日常生活のなかに科学する芽が習慣として繰り返し培われていくこと、そのための大人のまなざしとの関わりこそが大切。科学する心が育つ良質の「経験の連続性」を保証すること、子どもの経験の質の違いがわかる鑑識眼と実践の知恵をもつことが大人の側に、先生にも親にも必要である。

三つめは、「協働」。乳幼児期の科学が一対一の指導ではなく、親や先生も含めた科学探求のコミュニティによってなされるべきだが、さらに、その体験も友だちと「協働」し関わりながら行うことを通し、自然への親しみや愛着、友だちへの思いやりといった心情や倫理的な心も同時に育んでいって欲しい。感動は感じて動くと言われるように、まさに事物にふれて感じて動く体験こそが『科学する心』の基礎を築いていく。

そのうえで秋田氏は、「科学する心を育てる」とは、「豊かな感性と創造性の芽生えを育む」ことであるとし、『科学する心』を次のように定義しています。
①感動し想像する心
②自然に親しみ驚き感動する心
③動植物に親しみ、命を大切にする心
④ひと・もの・こととの関わりを大切にして、思いやる心
⑤遊び、学び、共に生きる喜びを味わう心
⑥好奇心や考える心
⑦表現し、やり遂げる心

来年4月より開講する「リトル・ダヴィンチ 科学アカデミー」(全校にて開催・年中~小2)では、単発イベントではない継続的な学習、知的好奇心と探求心の基となるセンス・オブ・ワンダーを十分体験できる実験、コンストラクショニズムに基づいた、発見と感動をお友達と共有しながら進める授業を柱としています。『科学する心』を楽しく育てる「科学アカデミー」。詳細は年明け発表致します。ご期待下さい。


【参考文献】『幼児期に育つ「科学する心」』(小泉英明・秋田喜代美・山田敏之編著/小学館)


To be continue・・・

2009年11月1日日曜日

【第47回】科学する心(Scientific Mind)①


― 脳科学者からの提言 ―

学技術立国を掲げる日本において、OECDの学習到達度調査(PISA)の結果を見るまでもなく(2008/1「新年のごあいさつ」参照)、日本の子供たちの科学に対する興味や関心、学ぶ意欲の低下が問題になって久しいいものの、根本的な解決策が見出せていないように感じます。科学への興味が先進国では低く、途上国では高い傾向に対して、「先進国の子どもたちは、科学情報にさらされることが頻繁で、ある種の麻酔をかけられたような状態です。一方、途上国の子どもたちの科学への期待はとても大きい。『どうして?』『どうやって?』と、Sense of Wonder、すなわち好奇心は尽きない。しかし、先進国では、子どもたちの周囲に関する情報があまりに多く、子どもたちが本来持っているはずの『自然の素晴らしさに深く感動する心』を麻痺させてしまっている」と、子供の教育に力を注いでいる、世界を代表する天文学者ピエール・レナ教授は分析しています。

そのような中、幼い頃から『科学する心』を育む教育の必要性が指摘され、幼稚園・保育園の科学活動を支援する「ソニー教育財団」から出されている『幼児期に育つ「科学する心」』という対談を納めた本には、実に興味深い議論が載せられています。

脳科学者であり、ソニー幼児教育支援プログラムの審査員を務めた小泉英明氏は、『科学する心』とは『素直に感じる心』と捉え、理性や知性を司る大脳新皮質を働かせるためには本能を駆動する大脳の古い皮質から生まれる情動、やる気、パッション、志といったものが不可欠であり、特に小さな時にはこの情動に関する古い皮質の部分と生命を維持する機能を持つ脳幹の部分をしっかり鍛えなければならない、そのためには幼児期から多様な体験を通じて『素直に感じる心』を育んでいく必要がある、と述べています。

また、乳児が手を伸ばしたり、口にものを入れたり、ハイハイしたりする行為を例に、サイエンスは意欲を持って外界に働きかけをしようとする乳幼児期から始まっていることに触れ、「脳は、コンピュータと違って自分の学習によって情報処理の方法論まで獲得していきます。その方法は、自分の知りたい外界に何か変化を与えて、その結果から外界の実態を知っていきます。この方法は、科学者が科学する方法と基本的には同じです。このような視点で考えていきますと、従来考えてきた高等教育の段階にいたらなくても、十分に科学の本質を教育することが可能であると考えられます。多くの優れた科学者が、幼児期の自然のなかでの体験が、今の自分にいかに大切であったかを語っておられます。創造性教育は高等教育の課題と捉えられていますが、本当は幼児期に形成される部分も大きいのではないかと思います」と、幼児期からの科学教育=科学する心を育む教育の必要性を説いています。

小泉氏が挙げる『科学する心』は、次のようなものです。

①自然の素晴らしさに深く感動する心
②真実を率直に認め決してごまかさない心
③偏りや思い込みなしに素直に判断し行動する心
④自然の中に生かされる命を大切にする心
⑤多様性を尊び相手を思いやる心

次回は、幼児教育学者・秋田喜代美氏からの提言を紹介したいと思います。

【参考文献】『幼児期に育つ「科学する心」』(小泉英明・秋田喜代美・山田敏之編著/小学館)


To be continue・・・

2009年10月1日木曜日

【第46回】森を育てるという生き方②


― 高尾山の森林 ―

RISE科学教育研究会では、一昨年より「サマーキャンプ」の開催場所を高尾に移し、昨年より自然観察の専門家の案内で高尾山の登山を活動の一つとして取り入れています。高尾山は、ご存知のように旅行ガイド「ミシュラン・ボワイヤ・プラティック・ジャポン」で山としては富士山の他、唯一日本の山として三ツ星を獲得しました。首都圏から日帰りで気軽に行けることもあり、年間110万人(07年) が訪れ、最近では外国人の観光客も多く見受けられます。私も「サマーキャンプ」やその打合せ、また個人的にも年に数回は登っていますが、決して飽きることない魅力的な山です。

魅力の一つとして、その自然の豊かさ、生物の種類の多さが挙げられます。高尾山を代表する鳥「ブッポウソウ」(仏法僧)そしてキビタキ、アカショウビン、イカル、サンコウチョウ、オオルリ、クロツグミなどの鳥類が150種類(日本全体では550種類ですので、その3分の一近くが生息しています)。これまでに確認された植物の数は1321種類(イギリスでは全土で自生する植物は1623種類なので、それに相当する植物の数が高尾山だけで見られます)で、高尾山に固有のもの(タカオワニグチソウ、タカオスミレ等)が60種以上も確認されているそうです。昆虫にいたっては、渡りをする蝶「アサギマダラ」を始め、なんと5000種を越えます。また、日没後はムササビの滑空も見られます。

この自然豊かな高尾山も、「サマーキャンプ」の案内人である高尾ビジターセンターの伴さんによると、大昔は野原で植林によって森林が作られたそうです。744年聖武天皇の勅命を受けた行基が薬王院を開山した高尾山は、戦国時代に北条氏照が竹林伐採禁止の制令を出し、江戸時代に入ると幕府は山林保護や植林を積極的に行いました。明治になると高尾山全域を帝室御料林に(1889)、そして明治の森高尾国定公園に指定(1967) 。第二次世間大戦中は海軍の船材として、戦後の物資が不足していた時代には建築用材として多くの木々が切り出されましたが、東京都高尾陣馬自然公園(1950)、国定公園(1967)に指定され再び保護を受けるようになったそうです。

そのため、高尾山の森林は主として3種の原生的な自然林と人工林に分類されます。自然林は北西側の冷温帯樹林(落葉広葉樹林ブナ、イヌブナなど) 、南東側の温暖帯樹林(常葉広葉樹カシ類)、稜線に集中しているモミ林です。昨年のキャンプでは『デジタルで探れ!森が教える時間と記憶』がテーマだったので、これらの森林の違いや森の一生を伴さんの案内と解説で学びました。

高尾山は人が守り育てた森林なのです。決して自然に作られた森林ではありません。大切に育てた結果、都会の近くにありながらも多くの生物が生息する豊かな森となり、人間との共存も可能とした一つの証として、「ミシュラン三ツ星」という栄冠を手にしたのではないでしょうか?

1号路から6号路までの自然研究路があり、それぞれにテーマが設けられているので、テーマごとに観察しながら散策してみてはいかがでしょうか?また、子供の足には少しきついかもしれませんが、夏に陣馬山まで歩いてみると実に様々昆虫と出会い、私でも童心に戻り興奮してしまうくらいです。


To be continue・・・

2009年7月1日水曜日

【第45回】森を育てるという生き方①


― 真鶴の魚付き保安林 ―

RISE科学教育研究会のメンバー「エルプレイス」(玉水亘代表)が主催する『海洋学習体験2009』(子どもゆめ基金助成活動)は、真鶴の琴ヶ浜海岸で行なわれます。真鶴は観光地としてあまりなじみがないかもしれませんが、東京からも近く、昨年来私もその魅力に惹かれ数回訪れ、そのたびに新たな発見と楽しみを与えてくれる土地です。

  真鶴町は神奈川県の南に位置しており、相模湾に面し小田原と湯河原に挟まれています。人口は8200人ほど(09年6月推定)、漁業と石材(小松石という良質の石材が取れます)、農業(主にみかん)、観光を主な産業とし、その地形が鶴に似ていることから真鶴と名付けられました。真鶴駅前の荒井城址公園から出発し、中川一政美術館、真鶴岬や三ツ石、そして琴ケ浜を巡って貴船神社、港にある魚座と、その気になれば1日で主な観光地はほとんど歩いて回れるくらいの小さな半島です。三ツ石や琴ヶ浜ではカニや魚を相手に磯遊びが楽しめ、観光船に乗って海から岬から三ツ石まで眺めることもできます。暖流の上限となる沿岸で獲れる魚介類は種類も多く(アジ・イナダ・サワラ・スズキ・タチウオ・ヒラマサ・キハダ・メジ・メバル・ムツ・マンボウ・カワハギ・カツオ・サバ・イワシや、伊勢海老・アワビ・サザエなどその数200種類)、新鮮で美味であることは言うまでもありません。真鶴岬にある「ケープ真鶴」という施設(2Fに「海の学校」あり)では、様々な種類の美しい貝殻が販売され、楽しい旅の記念にもなります。

  ただ、温泉が出ないことから観光地としては目立たず、水源となる川もなく地下水も少ないため周辺の自治体から購入しなければ水の供給も難しいので、人口を抑制しなければならないといったことから新たな住民を多く受け入れられないといった状況もあるようです。そのような背景もあり、真鶴町には全国に先駆け「まちづくり条例」(1993年)を制定し、バブルの頃のリゾートマンション開発に歯止めをかける一方、2005年に湯河原町との合併計画では住民投票で僅差ではありますが反対となり、中止されたといったことがありました。

  「真鶴町まちづくり条例」は、まちづくり計画として「美の原則」「美の基準」、開発や建築を行うときのルール、議会の役割や住民参加などを定めています。場所・格付け・尺度・調和・材料と芸術・コミュニティ・眺め、という8項目を基準とする「美の原則」は法令上規定することは異例であり、なじまない気がしますが、デザインコードはチャールズ皇太子の『英国の未来像 建築に関する考察』や都市計画家・建築家であるクリストファー・アレグザンダー(カリフォルニア大学バークレー校教授) の「パタン・ランゲージ」の発想を参照しているとのことです。そのため、町全体は清潔な印象を受け、この条例の一つの成果である「コミュニティ真鶴」という公民館の建物は、周囲との調和を取りながらも、その美しさに一際目を引きます。

  この背景には、町の人々が「御林(おはやし」と呼ぶ「魚付き保安林」の存在が欠かせないのではないでしょうか?真鶴半島自然公園には、森林浴遊歩道や番場浦遊歩道、海沿いを歩ける潮騒遊歩道などがありますが、御林遊歩道は魚付き保安林の中を歩くことができます。

  真鶴半島は箱根火山の外輪山の一部が相模湾に突き出たもので、海岸は高さ20m程の岸壁が続き、人が海岸に近づけないほど未開発な場所もあります。このような自然が造り出した豊かな原生林は、松・クス・シイなどの常緑樹の巨木とシダ類が生い茂っている豊かな森で、昔から漁師たちの間で「魚を育てる森」と言われ大切に守られてきた森だそうです。雨は森をつたい海水温度を変えることなく海へ流れ、バランス良く循環することで「魚も森に育てられている」と考え、これらの恩恵をもたらしてくれる森として「魚付き保安林」と呼ばれているそうです。「海の学校」の渡部先生お話では、つい最近まで教科書にも載ってたくらい、高木層・亜高木層・低木層・草本層・林床という森林の相観とのこと。

  「森が海を育てる」という考え方は、今では当たり前のように思われるかもしれませんが、この考えを長年にわたって日々実践してきた真鶴の人々には、敬服せざるを得ません。

  『海洋学習体験2009』は定員残り数名ですが、7月27日(月)・28日(火)には日本三大船祭である勇壮な「貴船まつり」(28日がクライマックス)、8月1日(土)「岩海岸の灯籠流し」、8/30(日)「真鶴よさこい大漁まつり」と、お祭り好きの真鶴はイベントに事欠きません。この夏、真鶴の魅力と出合ってみてはいかがでしょうか?

【参考文献】
「美の条例 ― いきづく町をつくる」(五十嵐敬喜・野口和雄・池上修一著:学芸出版)


To be continue・・・

2009年5月1日金曜日

【第44回】発達の最近接領域


― 生徒同士のコラボレーションによる学び ―

 以前、当アカデミーの授業運営について、コンストラクショニズムとの関連から「クラスの皆がお互いに刺激し合い、意見を出し合って、生徒たち自らの力で知識や知恵を高めていくという運営方法」(視線第7回参照)とお話させていただいたことがありました。これは、37歳の若さで世を去り「心理学のモーツァルト」とも称された旧ソビエト連邦の心理学者レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーの提唱する教育に関する理論『発達の最近接領域』と関連しています。

  ヴィゴツキーは、「子どもは集団活動における模倣(注:教師や仲間とならできること)によって、大人の指導のもとであるなら、理解をもって、自主的にすることのできることよりもはるかに多くのことをすることができる。大人の指導や援助のもとで可能な問題解決の水準と、自主的活動において可能な問題解決の水準とのあいだのくいちがいが、子どもの発達の最近接領域を規定する」と述べています。すなわち、『発達の最近接領域』とは、「他者(=仲間)との関係において、あることができる(=わかる)という行為の水準ないしは領域」のことなのです。

  そして、「共同の中では、子どもは自分ひとりにおけるよりも強力になり、有能になれる。かれは自分が解く知的難問の水準を高くひき上げる。しかし、つねに独力の作業と共同の作業とにおけるかれの知能の相違を決定する一定の厳密に法則的な距離が存在する」「われわれの研究によれば、ある年齢のある段階で発達の最近接領域によこたわっているものは、次の段階で現下の発達水準に移行し、実現するということを明瞭に示している。言い換えるならば、子どもが今日、共同でできることは、明日には独立でできるようになる」というように、協働で成し得たことが個人の力へと転化する(=個人の力を引き上げる)ことになると主張。

  「だが、われわれは次のことをつけたさなければならない。無限に多くのことではなく、かれの発達状態、かれの知的能力により厳密に決定される一定の範囲でのみということを」「発達の最近接領域は、まだ成熟してはいないが成熟中の過程にある機能、今はまだ萌芽状態にあるけれども明日には成熟するような機能を規定する。つまり発達の果実ではなくて、発達のつぼみ、発達の花とよびうるような機能、やっと成熟しつつある機能である」「教育は成熟した機能よりも、むしろ成熟しつつある機能を根拠とする。」と、適切な課題設定の重要性を説いています。

  当アカデミーでは90%は個人の力だけでできるが、残り10%は生徒同士の意見交換や刺激し合うことによるコラボレーションによって解決しうる課題設定を心がけています。そのため、もっと難しい内容をもっと低年齢から扱ってほしいと思われるご父母もいらっしゃるかもしれませんが、年齢の持つ能力からかけ離れたり、異なる能力を要する課題は避けていることをご理解下さい。また、講師はファシリテーター(促進者)として、コラボレーションの質を高め、気づきを誘発し、活動を活性化しなければなりません。ですから、ものづくりの場合講師の目は子供たちの手元に集中しがちですが、あくまで子供の目を見て、その頭の中で何が行われているのかを把握し、ちょっとした目の輝き、つぶやきを逃さないように心がけています。キメ細かく質の高い授業をさらに追求していきたいと思っております。


To be continue・・・

2009年4月1日水曜日

【第43回】リトル・ダ・ヴィンチ算数教室


― 公式を暗記する子どもではなく、公式を創る子どもを ―

算数が嫌いな幼児はいません。乳児でさえ数についての基本概念を持っており、生後5ヶ月の乳児が基本的なたし算とひき算ができるとも言われています(1992Wynnの研究) 。
また、幼児たちが作ったレゴの作品を見ると見事に左右対称になっていることも稀ではありません。なのに、小学校に入り学年が上がるにつれて算数が嫌いになる率が増えていくのは、なぜなのでしょう?

人の学習の認知プロセスを明らかにし教育への応用を研究しており、算数・数学における子供のつまづきに関する研究も行っている慶應義塾大学環境情報学部の今井むつみ教授は、以下のよう「認知科学的アプローチ」を紹介しています。

○認知的学習観
・学習は主体的な行為である
・学習は知識の変容である(累加または再構造化)
・学習は先行知識によって導かれる
・学習は領域固有である

○人間は知的好奇心から学ぶ
人間は自分及び自分を取り巻く世界について整合性を理解したいという基本的な欲求を持つ存在
・環境内に規則性を見出そうとする
・新しく入ってくる情報を既有の知識に照らして解釈。新しい情報が既有の知識と整合性を持つかを常にチェックする
・抽出した知識を類似の別の場面に積極的に適用

○人間は内発的な興味から学ぶ


では、どのように子供たちの知的好奇心や内発的な興味を刺激し、主体的な学習を実現すればよいのでしょう?
算数に限らず、小学3年生くらいまでは抽象的な思考を押し付けてはいけない時期です。例えば、小学高学年ならば算数の問題として当たり前に取り組める鶴亀算の問題も、小学低学年になると「カメが足を引っ込めたらどうなるなの?」「鶴が1本足で立ってるの見たことあるよ」などと返答することがあります。
これは決してふざけているのではなく、具体的な事物や事象の複雑さに目を奪われ、それを学ばなければならない時期だからです。この時期に具体物を通した学び(ハンズオン・ラーニング)を楽しく豊かに行うことが必要なのです。
リトル・ダ・ヴィンチ算数教室では、パターンブロックやポリドロンなどの算数ブロック教材や日常にある様々な具体物を用い、

●感性を生かす ―感じる心を大切にする
●手を使って考える ― 見る・さわる・あそぶ
●オープンエンドの学び ― 考えるプロセスを重視する
●コンストラクショニズム ― つくる・発見する・広げる
を基本コンセプトとし、

①事象と出会う(問題提起)
②関わりたいと感じる(知的好奇心の刺激)
③手を動かして考える(創作・操作)
④「問い」の質を拡げ、深める(探求)
⑤見えないものが見えてくる(本質の発見)
⑥考えの道筋を振り返る(数学的表現)
⑦現実の世界に目を向ける(現実への応用)

というプロセスで、認知的アプローチに基づいた算数活動を行います。公式を覚えてその運用のトレーニングを行うという従来型の学習では決して得られない、算数の楽しさを感じながら、雑多な現実から法則性をつかみ取り公式を作り出せるような子供をたくさん育てたいと思っています。



【参考文献】
『人が学ぶということ―認知学習論からの視点』(今井むつみ・野島久雄)北樹出版


To be continue・・・

2009年3月1日日曜日

【第42回】ロボカップジュ二ア⑦最終回


― ロボカップジュニアと大人の関わり方 ―

ロボカップジュニアの各チャレンジ(サッカー・レスキュー・ダンス) のルールは毎年改訂されます。その理由の一つとして、世界の教育学者が考案した課題を子供たちが様々なアイデアと工夫を凝らしてクリアしていくため、毎年レベルを上げざるをない、ということが挙げられます。また、ルールには次のような厳しい規定があります。

●指導者(教師、父兄、保護者、その他大人のチームメンバー)はチームの作業エリアに入ってはならない。
●指導者はロボットに触れたり、ロボットの作成、修理、プログラミングに関わってはいけない。
●指導者がロボットや審判の判定に干渉した場合、それが初めてである場合は警告が発せられる。そうした干渉が再び行なわれた場合、そのチームは失格になることがある。ロボットが今後の競技大会への参加資格を失い、追放されることもあり得る。
●全てのチームは自分たちの大会参加準備努力を説明する文書資料(書面および/または写真)を持ってこなければならない。これらの文書資料はインタビュー時に見せられるように用意しておくこと。チームが自作のロボットを携えて大会に参加する証拠として、これらの文書資料が要求されることがある。
●チームメンバー自身がロボットの組立とプログラミングを行なったことを証明するために、チームメンバーは自分たちのロボットがどのように動くかを説明することを求められる。
●指導者の援助・助言が過剰な場合や、ロボットが実質的にチームメンバー独自の作品ではないと判断された場合、そのチームは競技会の参加資格を失う。
  さらに、ダンス・チャレンジでは、通常4人の審査員からインタビューを受け、自分自身の力で作ったことを証明しなければなりません。これは、ロボットの演技同様、細かい祭典基準で評価されます。

  つまり、ルール改訂の歴史は、子供の自主的な学習から大人の過干渉をいかに排除するかの歴史でもあるのです。

  初期の頃は、会場内でプログラムを組んでいる先生に生徒が「先生!これじゃ動かないよ!」と叫ぶ、ほほえましい光景も見られたのですが、ルールが厳しくなるにつれて会場外で指導者がプログラムを修正していたり、携帯電話で指示を与えたり、ロボットの組み立てからプログラムまで行った先輩を別のチャレンジで送り込んでロボットの調整を行ったりと、指導者の介入方法もかなり巧妙になってきました。特にプライマリでは、小学生が自分で一所懸命作ったロボットと大人が作ったロボットが対戦するのですから、これまでどれだけ多くの生徒たちが涙を飲んできたか知れません。それが、ここまでルールが厳しくなった理由なのです。スポーツならば子供自身が体を動かすのでこのようなことはないのですが、ロボットはいつ、どこで、どのように、大人の手が加わったかが分からないのです。

  かつてある地域で、ロボットの天才少年というニュアンスでマスコミに取り上げられた子がいました。しかし、世界大会の場で電池1本取り替えられないのが判明してしまったのです。果たして、この子は幸せなのでしょうか?「わが子に勝たせたい」という気持ちは十分分かります。しかし、自分の実力で、自分の努力で勝ち得たものではないことに対して、勝利によって得た幸せな思いは果たしていつまで続くのでしょう?現実を正しく判断できる年齢になった時、辛く苦しい思いをするのは子供自身なのです。成功体験は大切です。しかし、成長のためには、自分の力で得た成功体験しか意味はないのです。

  「荷物を置くだけ」という理由で立ち入り禁止となっている調整エリアに平気で入る大人、スタッフになって調整エリアで平気で指導している大人、子供が問題解決をしようする前に先回りをして手を貸してしまう大人、学習の場として本来子供同士の交流から得るべきなのに優秀な先輩から技術情報を聞き出そうとする大人・・・。自主・自立の精神に基づいた子供の学習を阻む大人たちは後を絶ちません。

  確実に大人は子供より先に死ぬのです。

  教育本来の目的は、「成長する過程で人に頼らず自分の力で立派に生きていける能力を身に付けることにあること」ではないでしょうか?大人に依存しなければ生きていけない子供をつくることではありません。大人のすべき役割は、子供たちの意欲を刺激しながら自主的に取り組めるような学びの環境を整えること、問題に当たったときの解決方法を自ら考えられるように育てること、競技会では子供の力を信じて(大人自身がどんなに辛くても)じっと最後まで見守ること、そして頑張った子供を評価することではないでしょうか?子供との関わりによって、大人も初めて「大人」に成長できるような気がします。


To be continue・・・

2009年2月1日日曜日

【第41回】ロボカップジュニア⑥


― ロボカップジュニアの教育的意義 ―

小学生~高校生を対象にした他のロボットコンテストと異なった、ロボカップジュ二アが持つ特徴としては、以下の点が挙げられるかと思います。
○地域限定ではなくジャパンオープンや世界大会といった上位大会が用意されている
○世界の教育学者がデザインしている唯一のロボットコンテストである
○世界の子供たちが共通の課題に取り組む
○自律型ロボットのコンテストとして最も難しい課題が設定されている
○サッカー、レスキュー、ダンスの中から自分に合ったチャレンジを選択できる
○ロボットを研究開発している大学の研究室や企業の最先端のロボットが見られる
(ジャパン・世界/場合によっては、質問をするとかなり丁寧に説明をしてくれます)
○ロボットの説明や開発過程を書いたプレゼンテーションポスターなどでお互いの技術を公開し、学び合う場が設けられている
○他の地域、他の国のチームと組んで競技を行ったり、ジュ二アパーティーが催されたり、子供たちの交流の場が設けられている(ジャパン・世界)
そもそもコンテストとは、「日頃積み重ねてきた学習の成果の発表であり、最高の学びの場である」と考えています。ロボカップジュニアの活動を通じて、生徒たちに学んでもらいたいのは、科学技術に対する理解は当然のこととして、
・自発的な活動姿勢
・自主自立の精神
・高い目標設定とそれに向けて精一杯、粘り強く努力する姿勢
・試行錯誤しながら自らの頭で考え問題を解決する力とその手法
・正しい研究方法とPDCA(Plan-Do-Check-Action)よる開発方法
・研究成果の記録
・プレゼンテーションスキル
・チームワーク(メンバーを尊重し信頼して同じ目標に向かって責任を持って協力・分担する)
・人との交流 (他チームの同年代・先輩・審判・メンター)など。
何年もロボカップジュニアに取り組んできた生徒が、複合された課題を与えられた時に、課題を構成する要素を取り出し、それぞれにプライオリティ(優先順位)をつけ、派生する問題を潰しながら、その一つ一つを順序よくクリアしていく姿を脇でずっと見ていると、これまで単にレゴが好き、ロボットが好き、というだけだったように思えた生徒が、人生のどのような場面にも応用できる問題解決力を身につけたなーと、しみじみと感じ目頭が熱くなることがあります。問題解決型の総合教育として、全人教育(知情意を調和して備えている人物を育てる教育)を可能にする、実に有意義であり、子供にとってもインパクトの強い活動であると言えるのではないでしょうか?

ロボカップジュニアの精神
「大切なのは『勝ち負け』ではなく、
ロボカップジュニアの活動や経験を通して
『いかに多くのことを学んだか』ということである。」
― ロボカップジュニアのルールより ― 


To be continue・・・

2009年1月1日木曜日

●2009年 新年のごあいさつ  ~混迷の時代、教育の原点とは?~


― 混迷の時代、教育の原点とは? ―


新年明けましておめでとうございます。
当アカデミーも発足以来早20年が経ち、ブロックとロボットの科学教室運営を始めてから8年以上となりました。これまでのご父母の皆様の変わらぬご理解とご支援を感謝申し上げます。本当にありがとうございます。

昨年突然世界が変わりました。東西の壁が崩壊して以来、世界の覇権を独占してきたアメリカが牽引してきたグローバル化した世界の諸問題が一気に吹き出た感があります。「100年に1度の津波」と言われるアメリカ発の金融危機・経済危機の波がヨーロッパ、日本だけでなく世界全体に同時に襲いかかり、先が読めない不安がデフレ不況への危機感を深めています。「新自由主義」の考えに支えられた市場の在り方の行き詰まりを、朝日新聞1月1日社説『混迷の中で考える―人間主役に大きな絵を』では「人間や社会の調和よりも、利益をかせぎ出す市場そのものを大事にするシステムの一つの帰結である」と言っています。

最も衝撃的な事件は6月の秋葉原無差別殺傷事件。私も偶然近くにいて、事件後の騒然とした現場に出合ってしまいました。残酷な事件に関わらず、ある種の共感を覚える若者がいることも大きなショックです。この事件を見田宗介氏(社会学者・東大名誉教授)は、12月31日朝日新聞『リアリティーに飢える人々』という文章で以下のように分析しています。

若者の夢や未来に対する想像力のスケールがどんどんしぼんで現実的になった結果、素晴らしい未来が必ず来るとは思えない「未来の消滅」と、自分はだれからも必要とされていないと思い込む「まなざしの不在」とがアイデンティティの問題として根底に横たわっている。人と人との関係の中で、愛情や関心であれ憎しみや干渉であれ、他者との間に交わされる関心が希薄な「空気の薄い時代」に、バーチャルな世界だけで人間は幸せにやっていけるんだと多くの人々が思い込み虚構に居直った「バーチャル(仮想) の時代」になっている。「青年たちが生きるリアリティを充実させる方法を見つけることができれば、もう一つの新しい時代が開かれると思います」と文章を結んでいます。

明るいニュースとしては、日本人4人がノーベル物理学賞・化学賞を受賞したことでしょう。日本の高い科学力を世界に示しました。しかし、一方で日本の子供たちの「理科離れ」「科学離れ」が指摘されています。特に国際的な学力コンテストでは、「勉強を楽しんだり、将来の夢に結びつけるような意欲の高さについてはどうだろう。(中略)授業は大体理解はするけれど、あまり心が弾まない。そんな教室の子供を思うと、点や順位よりこちらの問題がより深刻だ」(12月10日毎日新聞)というように、「学ぶ意欲の低下」が浮き彫りにされました。「知識はあるが、応用力が弱い。未知の問題に向き合った時の解決能力が乏しい。それが日本の子どもたちに対する評価である。その主な原因の一つが暗記中心の入試制度にあることは確かだろう」「今の子どもの環境や生活に即して、いかに好奇心や疑問の芽を引き出して育てるか。『受けたい授業』を工夫しなければいけない」(以上年12月10日朝日新聞) という指摘もありました。

2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治氏は、1月1日産経新聞『科学の夢 子供へのメッセージ 「自然の知」はぐくめ』で、問題は理科だけでなく『知離れ』であると指摘。「地球という有限の枠組みの中で、どうすれば人類が生き続けられるか。自然について教えてくれる科学は、そのもっとも基本となる知なのです」と結ぶその文章の中で、「子供はみな、生まれながらにして科学者です。花や動物や、虫が好きで、雲や太陽、星を見ては不思議に思います。これらはすべて理科です。教えなくても、自然と興味を持ち、いろいろなことを学びます。こうした体験から得る知識を『暗黙知』といいます。これに対して、教科書などに整理された知識が『形式知』といいます。今の子供たちは、自ら基本的な『暗黙知』を得ないまま、学校で試験のために『形式知』ばかりを詰め込まれています。理科離れが起きて当然です」と述べ、「(学校が責任をもってきちんと教えれば)成績向上のために塾に充てている時間を文学や美術、音楽などの教養を身につけるのに使うべきです。教科の力だけでは、世界の人々と肩を並べて生きてはいけません」と提言しています。

「国家百年の計」と言われる教育。今の教育に必要な条件が見えてくるような気がします。それは、「地球という一つの船の上で、人間や社会の調和を目指し、子供たちが未来に対する夢を持てるよう、自然や社会、人々との関係の中でリアリティを十分感じながら、好奇心持って生き生きと楽しく学べること」ではないでしょうか?しかし、現実は残念ながら、ゆとり教育の反動のせいか、従来と変わらぬ学力観のまま、いわゆる「勉強」が重視される風潮にあるようです。

20年前学習塾としてスタートした当アカデミーは当時、学校や他の学習塾と同様、ペーパーに頼った授業を行っていました。まさしく「勉強」を強要していたのです。しかし、10年近く前その教育の限界を感じ、ブロックとロボットを教材とした教室に転換しました。ブロックを始めとする具体物を教材として自分の手と頭を使って考える「ハンズオン学習」を通して、正解のない「オープンエンド」の問題に取り組む「ものづくり教育」。これを「コンストラクショニズム」という教育理論に基づいて、問題点や法則・原理を発見し、問題点の克服や法則・原理の応用を自ら行える力や、道筋を大切にした研究や開発の正しい方法を育てていこうというものです。日本の教育を少しでも変えることに貢献できればと願って活動してまいりましたが、ここ数年、科学館や小学校での出張授業において、多くの学校の先生方やご父母の皆様から、この問題解決型の授業に対する賛同のお声をいただけるまでになりました。

子供はみな、生まれながらにして科学者であり芸術家です。その資質をどこまで伸ばせるかは、大人の責任ではないでしょうか? 今一度、教育の原点に立ち返り、学びたいという人間の本能、知的好奇心と探究心を刺激し、世界が求める真の学力を身につけられるよう、講師一同、より効果的な教材・カリキュラム開発、より質の高い授業の実践に邁進していく所存です。

本年も変わらぬご指導、ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

-------------------------------

かすかな光へ
谷川駿太郎

あかんぼは歯のない口でなめる
やわらかい小さな手でさわる
なめることさわることのうちに
すでに学びがひそんでいて
あかんぼは嬉しそうに笑っている

  言葉より先に 文字よりも前に
  波立つ心のささやかな何故?が芽ばえる
  何故どうしての木は枝葉を茂らせ
  花を咲かせ四方八方根をはって
  決して枯れずに実りを待つ

子どもは意味なく駆け出して
つまずきころび泣きわめく
にじむ血に誰のせいにもできぬ痛みに
すでに学びがかくれていて
子どもはけろりと泣きやんでいる

  私たちは知りたがる動物だ
  たとえ理由は何ひつつなくても
  何の役にも立たなくても知りたがり
  どこまでも闇を手探りし問いつづけ
  かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える

老人は五感のもたらす喜怒哀楽に学んできた
際限のない言葉の列に学んできた
変幻する万象に学んできた
そしていま自分の無知に学んでいる
世界とおのが心の限りない広さ深さを

-------------------------------
To be continue・・・